ザッハリッヒ 蚕の記録

気まぐれお絵描き屋さん、蚕(かいこ)の記録です。作品について、日常のこと、過牛歩で。

朝方、猫がないている

わたしは、感じたことを、他人にもわかるかたちで、「言葉」で説明することが苦手、
議論だとか、そういうこと、たぶんあんまり好きじゃない。
拙くても、「こう感じたよ」「こう思ったよ」と、話して、
それに「そうなんだ」で返すだけの会話、よくしてる、そういう会話が好きなのだと思う。
ともだちが、「きのう、お風呂で30分くらい泣いたの」と話していた。
それから、おすすめの音楽、ミュージシャンの名前をメモしてくれて、
わたしは、ネタになりそうなCDと、岩館真理子の漫画「アリスにお願い」を、彼女に貸した。
おうちへ帰って、さっそく、教えてもらったミュージシャンのことを調べて、見つけて、聴いた。
ひりひりっとして、
いんたーねっとしながら、どこかの掲示板で、知らない人が、大島弓子作品について、むずかしげな言葉を並べて感想を述べているのを、読んで、「よくわかんないなー」と思い、大島弓子作品について、自分の中からしっくりくる「言葉」を引き出そうとしたら、困難、だったので、よけい、迷子になってしまい、そうそう、迷い込んでるの、探り、探り、歩いてるの、そういう感じがするんだ、と思った。
だから、明確な答え、「○○である!」と、はっきり「言葉」にして結論づけることなんて、わたしにはできない。
読んでいて心地よくて、ひりひり、ざわついて、だからって、それがなんだ、めんへる女のバイブルだー、女の中二病だー、とか、定義づけされているのを見ていると、否定する気にも肯定する気にもならなくて、
なにか作品に触れて、どう感じたとか、どう思ったとかって、他人にはなんにも関係ないことだなあと、改めて思ったので、やっぱり、わたしは、「へえ、そうなんだ」っていう返事もらうだけでいい。
「それはつまり〜ということだね?」「要するに〜だよ!」とか、そういう言葉を返されると、残念な気持ちでいっぱいになる。
あー、だから、自分の感じたこと、思ったことなんて、外に出すんじゃなかった、
だいじにしまっておけばよかった、と思うことが、よくある。


すすめられた音楽を聴きながら、お風呂で泣いている彼女を思い浮かべてた。
共有できる気持ちなんて、だれのあいだにも、どこにも無くて、
共有できるのは、いっしょに過ごす時間だけで、それで充分なんだと思う。
今わたしが感じている、ひりひりっとしたものも、彼女のもっている痛みじゃないのだろうし、
だけど探るんだ、近い感覚を、
それを「言葉」にしてしまうのは、もったいないな。つまらないな。


彼女の描いた絵を、一生懸命いんたーねっとで探してた。
すごーく、見たくなった。
聴いていた音楽と、お風呂で泣いた彼女と、彼女の描いた絵が、不安定に、つながって、
わたしは、またひりひりっとした。
こういう感じ、とっても好き。


うまく伝わる気がしないんだけど・・
大島さんの、サバシリーズのお話に、桜の花を「さわっても、さわっても、遠い感じがする」みたいなこと、書いてあって、「猫も、さわっても、さわっても、遠い感じがする」とも書いてあって、それが、わたしはとっても、気になって、気に入って、
理解し尽くすことのできない、言葉では言い表せない、結論づけしにくい、わたしとだれかのあいだにある、ふわふわとした距離感が、尊い感じがした。