ザッハリッヒ 蚕の記録

気まぐれお絵描き屋さん、蚕(かいこ)の記録です。作品について、日常のこと、過牛歩で。

すなおであること、考え事、ひとりごと

漢和辞典はおもしろい。
わたしの名前にある漢字、「すなお」という意味もあるのだとか。
大人になったせいか、自分の名前、「悪くないな」から「好きだなー」に変わってきた。


求めていること、出来るだけ、邪なものを避けて、研ぎ澄まして、いっぽん道であるほうが好ましいので、よく考え事をする。
家族、恋人、友人、知ってる人、知らない人、との、関係、心地よい距離感を探る。
母の求めるわたし、母のために在るわたし、それは嫌い。そんなものはこの世にいなくてもいい。
友人、なるべく期待し合わない関係がいい。お互いを、その形のまま、「そうだね」って認めること、認められること。プラス、愛せること、愛されること、それはつまり「思いやり」や「尊重」か。
他人の中に、自分の居場所があるなんて、そんなことはぜったいに信じない、そんなものは無い、そもそも、それは「わたし」ではない。それは、どこまで行っても、その人自身でしかないと思う。
恋人、そして、将来あるとしたら、自分の子供、には、自分のすべてをまるっとあげちゃってもいいなーという覚悟、まあ、あるけれど、だけどそれはちがうね、そんなのは虚しい、そんなのはほんとうに欲してるものではないと、ちゃんと理解できるような関係が望ましい。「だれかのために」なんていう存在理由なんか、チンプ。
「依存」について、ときどき考えるけれど、
今現在、わたしが不健全さを感じるのは、母と自分との関係だけなので(気をつけている)、
恋人とはなかなか良好な距離感を保っている、ので、「依存」とは程遠いものになりつつある。
毎日、充実した安心感、お互いのあいだにある惜しみない愛情!それは当然のもので(だれにとっても、そうあるべきものだと思う、むずかしいが)、穏やかで温かで清らかで、
さらにその状態を「ずっと続きますように!」とお互いに望んでいること、じつに幸福。
友人(知り合い、含む)に関しては、すこしでも不健全さ、不純さを感じると、拒否反応起こす、危機感あればすぐ回避することにしている。そういう相手は、たいてい、他者に自己を求めている。知ってほしい、見てほしい、聞いてほしい、触れてほしい、認識して!理解して!受け入れて!自分を!自分を!!
そんなもんは、わたしのようにチラシの裏にでも書いたらいいと思う。そのためのほーむぺーじ!そのためのぶろぐ!で、いいと思います。


そんで、そういうこと考えてると、自分にとっての「絵」ってなんなのだろう、とか考え出す、
それはきっと、外から受けた刺激への「感想」だったり、単なる「反応」であったりするのかもしれないなーとか思って、
だから、きっと、あんまり意味はない。それでいいと思う。
受けて!受けて!感じて!感じて!触発され続けることに、「生きてるなー」なんて実感があるのかもしれないな。
まあ、なんでもいいけれど、いるんだかいないんだかハッキリしない敵におびえて石投げたり落とし穴作ったり、そういうのはもうやめたんだ。子供じゃないんで!


(でもときどき都合よく、「まだ子供なんで」とも言いたいわたし)